KYOTO * 通訳

an interpreter in Kyoto:京都にて、駆け出し通訳者の日々。

通訳の大いなる代弁者:『通訳者と戦後日米外交』

先日ある場所で、通訳者が「通訳理論や研究なんてものは、現場で日々言葉と向き合う現役通訳者にとっては何の役にも立たない」と(やや憤慨さえしつつ)語るのを耳にしました。

 

果たして本当にそうでしょうか。

 

確かに、常に現場で目の前のクライアントの要請に応え、少しでもよいパフォーマンスをして結果を出さなければいけない現役通訳者にとっては、通訳の「理論」を知るよりも、1つでも2つでも語彙を増やし、背景知識を身につけながら、次の仕事の資料を読み込むことに限られた時間を使う方がはるかに「実践(実用)的」であり、優先順位が高いことは言うまでもありません。「プロセスモデルだ努力モデルだと言われても、だから何?(モデルを知っても、私の通訳力は上がらないぞ!涙)」という、その切ない「感じ」(笑)はわかります。

 

しかし、この事実を踏まえて、「それでも...」と、あえて言いたいのです。

 

今日ご紹介する鳥飼玖美子著『通訳者と戦後日米外交』は、これまでの通訳と翻訳に関する国内外の研究を踏まえつつ、日本の同時通訳の先駆者であり、まさに「戦後の日米外交」を通訳者という立場で担ってきた五氏(西山千、相馬雪香、村松増美、國弘正雄、小松達也)へのインタビューから得た膨大な語りを記述・分析し、そこから日本の英語教育や日本人の言語観、通訳教育といったテーマにも切り込みながら、「日本における通訳と翻訳」の現在地を同定し、今後の通訳の役割に示唆を与える、という通訳研究の大作です。本書では上記五名の語りから、

 

  1. 戦後の日本でどのような人々が、なぜ、どのようにして通訳者になったのか、
  2. これらの先駆者は自らの役割をどのように認識していたのか、
  3. そして実際の通訳現場では、どのような役割を果たしていたのか

 

が浮き彫りにされます。

 

本書はまぎれもない「通訳学の研究書」です。分厚いです。しかし決して単なる理論に終わらない、過去の通訳者の「実践の記録」であり、そこから今後の通訳者がいかにこの仕事に携わっていくべきなのかを示唆する「実践のすすめ」でもあります。

 

そして何より、本書は通訳研究を通じて、通訳そして通訳者の大いなる「代弁者」として声を上げているのです。

 

同じ「訳す」という営みであっても翻訳の重要性は従来から認められてきた。しかるに音声言語についての感覚は、最近になっても「沈黙は金」という価値観にい まだ支配されているかのようである。... 例えば、翻訳の重要性は翻訳をする人間は「翻訳家」と呼ばれるのに対し、通訳の場合は過去に使われた「通詞」「通弁」は消滅したものの、たんに「通訳」と 呼ぶことがいまだに主流であり、法廷では「通訳人」が使われ、稀に「通訳士」「通訳者」が登場しても、決して「通訳家」ではないことにも象徴される。

 

鳥飼氏はこの「翻訳家とは言っても通訳家とは言わない」という現象について、「通訳が対象とするのは音声言語であり、翻訳が扱うのは文字言語であることに由来するのではないだろうか」と推察し、日本では特に「話し言葉に対する軽視の姿勢が社会のあらゆるところに見られることを指摘しています。そして、

 

そこには、人間にとって言語の何たるか、言語が内包する文化の問題、コミュニケーションという行為がはらむ言語と文化の葛藤についての深い認識はない。当然、そのような言語とコミュニケーションを扱う専門職としての通訳への理解も欠けている。

 

と述べています。

通訳学・通訳研究によって体系化される通訳理論は「通訳の代弁者」たり得るーー私はこの本を読むとそう強く感じます。

 

日々言葉と文化の狭間に立って「訳す」という営みと向き合う通訳者の脳の中ではどんな現象が起きているのか。通訳者は、グーグル翻訳を始めとする開発中の通訳機器に将来とって代わられるべき「言語変換機」なのか。

 

通訳者が「黒子」であると言う時、そこにはどういった意味が内包されるのか。「通訳者が発するのは他人の言葉であって、自分の言葉ではない...」の言説(あるいは教え)は本当なのか。通訳者のこれまでの、そしてこれからの社会的な役割とは。ボランティアで済ませられればそれで良いのか。日本で、通訳や通訳者への社会的立場や評価は適切なものなのか。

 

通訳研究は、こういった社会の中で埋もれがちな問いを掘り起こし、向き合い、答えを見いだしていく作業でもあります。

 

(だから、よく言われることですが、やはり理論と実践とは車の「両輪」なのでしょうね。)

 

現場で働く通訳者にとって「通訳・翻訳学」は無用の長物かーー。

 

通訳学校で様々な訓練を受ける時、あるいは「言葉尻ではなく意味を捉えなさい」と講師に教えられる時、そこには意識せずとも先達の記した「理論」の影響が大いにあることはここでは横に置いておくとして、

 

日々現場で奮闘する通訳者に代わって、通訳という営みはどういうものなのか、通訳者とはどういう職業なのかということを説得力をもって記述し、整理し、体系化して世に示そうとするーーこの働きを担う通訳学・通訳研究について「役に立たない」ということは、他の誰が言っても、

 

「通訳者」が言ってはならない、と私は思います。

 

それは通訳研究をする研究者への共感や同情などではなく、「話し言葉に対する軽視の姿勢が社会のあらゆるところに見られる」この国において、「翻訳家」とは言っても、通訳をする人はいまだ「通訳」としか呼ばれないこの社会において、代弁者たる通訳研究を大事にすることが、結果的には通訳者としての自分の身を助くことに繋がるかもしれないと思うからであり、

 

さらには「通訳業界全体」を守ることに繋がると思うからです。通訳者は常に個人の仕事のことだけでなく、そういう業界全体の利益や質の底上げについても心に留めておくべきだ...と(駆け出しの身でエラそうに)思っています。

 

そして、日本では通訳学はまだ草創期であり、いわば産声を上げたばかり。ヨーロッパでも通訳研究が始まったのは1950年代ですから、新しい学問なのです。だから、日本の通訳と通訳者を対象とした独自の研究はまだ、すぐに通訳者や通訳教育に携わる者の実践に繋がるものではないかもしれませんが、「通訳者」だからこそ、この分野の研究を、そしてそこから紡ぎ出される通訳学と理論とに期待し、見守っていこうではありませんか。(と又エラそうに...笑)

 

というわけで、鳥飼玖美子先生の『通訳者と戦後日米外交』はわりと分厚く、言語と文化についてがっつり深く語る研究書でありながら、語り口は易しく、通訳や通訳研究になど全く関わりのない方でも読みやすい内容です。様々な背景をもつ5人の日本の通訳のパイオニアがどのように英語を学び、通訳者となり、何を考えて通訳し戦後の外交を担ってきたのかの記録はそれ自体が大変興味深いものですし、さらには英語学習や通訳訓練についても示唆が満載で、秋の夜長の、ちょっと歯ごたえのある読書におすすめの一冊です。

 

通訳者と戦後日米外交

通訳者と戦後日米外交

 

通訳者と戦後日米外交